「メビウスの輪」の表側
福岡の某大学に通う学生が、日々のどうでもいいことを備忘録代わりに書き記したり、オリジナルの推理小説を中心とした様々な小説をを発表したりするブログです。
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まだ幼すぎる君には早すぎるかもしれないけれど
 軽く握り締めた手を振り上げ――そして降ろす。
 もう何度目になるか分からない、目に見えて分かるほどの逡巡。扉をただ2,3度ノックする。たったそれだけの行為が、今、男にとってはあまりにも困難な行為となっていた。
「いつか、この日が来るのは分かってただろう?」
 誰に聞かせるでもなく、自嘲気味に呟き、うつむく。そして再び顔を上げた彼は、先ほどまでの迷いを払うかのように力強い動作で扉を2度、ノックした。
 部屋の中から返事はない。もとより返事を期待していなかった男は、構わず、扉を開ける。とっくに陽は落ちているというのに電気もつけず、カーテンを閉め切った薄暗い部屋の隅――そこに少女はいた。
 いつも明るく、周囲をハラハラさせるほど腕白な自分の娘が、体育座りで、背負ったランドセルを降ろしもせずに顔を伏せる姿に、男は自分の予感が的中していたことを確信する。
「勝手に入らないでよ、父さん」
 伏せた顔を上げることもなく、少女は呟く。常とは違う、反抗的な態度。だが、男はそれを無視して、ただ告げた。
「母さんのこと、知りたいか?」

 *

「それで、いつになったら母さんのこと教えてくれるの?」
 痺れを切らした少女が、男に尋ねる。行き先も告げられないまま車に乗せられてから既に数十分。十歳になって日の浅い少女の我慢が限界に達するのは仕方のないことだった。
「――その前に、誰がお前に何を言ったのかを聞いてもいいか?」
 少女は暫し、躊躇する素振りを見せたが、やがて観念したように口を開いた。
「香奈叔母さんが言ってた。母さんを殺したのはあたしだって」
 やっぱりか、と男は小さく呟いた。
「初めに言っておこう、お前は少しも悪くない」
「なんで! どうしてそうなるの! あたしを産んだせいで母さんは命をおとしたんだ!
あたしの誕生日の三日後が母さんの命日なのは、つまりそういうことなんでしょう?」
 これまで見せたことがないほどの少女の剣幕にも、男は少なくとも見た目上は平静を保ちながら、静かに首を横に振った。
「そうじゃないんだ。ダッシュボードを開けてみろ」
 渋々と言われたとおりにダッシュボードを開け、少女は小さなファイルを見つけた。
「これは、新聞のスクラップ?」
「ああ、車内灯をつけてもいいから読んでみろ。読めないってことはないだろう?」
「馬鹿にしないでよ、これくらい読めるもん」
 ふて腐れながらも、少女は記事に目を通す。と、少女の表情が段々と険しいものになっていく。
「ねえ、これってどういうことなの?」
「書いてある通りさ。一人の妊婦が体調を崩して救急車を呼んだ、ところが多くの病院で受け入れを断られ、たらいまわしにされてしまう。やっと受け入れ先を見つけたはいいが、処置が遅すぎたせいで、数日後、彼女は死んでしまった――お前が生まれた日の出来事だ」
「じゃあやっぱり、この記事に載ってる妊婦さんって、もしかして?」
「ああ、お前の母さんだよ」
 一息ついて、男は告げる。
「だから改めて言ってやろう、母さんが死んだのはお前のせいなんかじゃないし、ましてやお前が気に病む必要なんて少しもないんだ」
 少女はその言葉の意味を自分の中で暫く反芻し、やがて呟く。
「あたしは悪くない? じゃあ、悪いのは母さんを助けられなかった――」
「病院だって言いたくなるよな? ところがことはそう簡単じゃないんだよ――っと、着いたな」
 話を遮られたことに釈然としない思いを抱きつつ、少女は視線を父と合わせる。
「着いたって、ここはまさか――」
「ああ、そのまさかだよ、ここはお前が産まれた場所で――そして母さんが死んだ場所だ」
 月明かりに照らされ、悠然と佇む白い巨塔を前に、男は感慨深げに呟いた。

「お待ちしてました! 成瀬さん! お元気でしたか? なんて愚問ですね、病院でお見かけしないってことは、元気だってことなんですから」
 ニコニコと柔和な笑みを浮かべる白衣を着た丸顔の男に出迎えられ、二人は病院へと足を踏み入れた。父は遠慮する素振りも見せず、堂々と。そして娘はこの先に何が待ち受けているのか分からない不安を隠しきれずに怖ず怖ずと。
 本来は外来の患者が来るような時間ではないため、照明は最低限に絞られている。辺りが覚束ないからか、それとも初めて訪れる場所であることに対する不安からか、あるいはその両方か。少女は父から離れないようにピタリと寄り添いながら歩いていく。
「それにしても、本当にお久しぶりですね、成瀬さん、一年振りでしょうか?」
「そうですね、前に訪ねたのが去年の妻の命日でしたから、丁度それくらいになります」
 さり気なく発せられたその一言に、少女は息を呑む。それに気付いたのか、白衣の男が少女に笑顔とともに伝える。
「君のお父さんには、毎年、無理を承知でここに来てもらっていたんだよ。今まで秘密にしていてごめんね――いや、もっと先に謝らなくちゃいけないことがあったね」
 そう言うと、彼は不意にその場に立ち止まり、深々と頭を下げた。
「十年前、僕たちの力が及ばず、君のお母さんを助けてあげることができなかった。許してくれとは言わない。けれどもお願いだ、どうか皆を代表してこの場で謝らせてもらいたい」
「え……」
 唐突に訪れた事態に咄嗟の対応ができず、少女は狼狽してしまう。すがるように父に視線を向ける。視線に気付いた父は、少女に代わり答える。
「先生、その話はもう十分です。何度も言ってるように、私どもは皆さんのことを恨んでなどいません」
「しかしそれでは――」
「いいんです、それにどうしてもとおっしゃるなら、先ほど電話で頼んだ件を――」
「ああ、そうでした、ええ、お安い御用ですよ、ここからはもうすぐです」
 男は慌てて顔を上げると、再び二人を連れて歩き出した。程なくして、一枚の扉の前に立つ。
「本当はここから先は関係者以外立ち入り禁止なんですけれどね、今日だけですよ?」
 悪戯な微笑とともに、男は扉を押した。
 辺りの暗闇から隔絶した、照明を惜しげもなくつけた部屋。そこは所謂ナースステーションと呼ばれる――少なくともその性質を有した――部屋だった。
 普段は目にすることのない異質な空間に、少女も少なからず興味を覚えたらしく、落ち着かなさ気に当たりをキョロキョロと伺っている。そんな少女の肩を叩くと、男は部屋に入ってすぐに置かれているホワイトボードを指差した。そこに掲げられていたのは一見、何の変哲もないシフト表である。最初はその意味を掴みかねる少女だったが、一番上に書かれている言葉に気付き、目を見開いた。
「キミエ――シフト?」
「そう、君のお母さんの名前だよ」
 男は力強く答えた。
「単純な話、僕たちが君のお母さんを助けられなかったのは、人手が足りなかったからなんだ。僕たちはそれをすごく反省した。だからこうやって、いつ、どんな患者さんが来ても受け容れられるような態勢を作って――キミエシフトと名づけたんだ。まあ言うのは簡単だけれど、実際には色々と障害があって、こうやって形にするのには随分と時間がかかってしまったんだけれどね」
 照れくさそうに呟く彼の言葉を聞き、少女は理解してしまった。父の言っていたことの意味を。この人たちは、悪くない。この人たちは、母を助けるために本当に一生懸命頑張ってくれたのだと。
「どうしたの? どこか痛い?」
 医師の言葉を聞き、少女は知らず涙を流している自分に気がついた。慌てて顔を父の胸に埋め、泣き顔を隠す。
「分かったかい? お前も、ここの人たちも悪くないってことが」
「――わからないよ。あたしも病院の先生も悪くないなら、一体誰のせいで母さんは死んじゃったの?」
「誰も悪くなんてないさ。母さんが死んだのは誰のせいでもない」
 娘の頭を愛おしげになでながら、父は続ける。
「この世には誰も悪者がいないのに、どうしようもない悲劇が起こってしまうことがあるんだよ。今はまだ、わからなくてもいいけれどね。でも一つだけ分かってほしいんだ、母さんの気持ちだけはね」
「母さんの気持ち?」
 父の言葉の意味が掴めず、娘は埋めていた顔をあげる。
「そう、母さんの気持ちだ。母さんが最期に呼んだ名前、それはお前の名前だったんだぞ」
「!」
「お前には話していなかったけれどな、お前の名前を決めたのは母さんなんだ。男の子でも女の子でも、子供の名前は“光”にしましょうってね。この意味が分かるか?」
 娘は黙って首を横に振る。
「お前は覚えているはずもないけれど、病院のご厚意で、母さんは死ぬ前の最期のときに、お前と直に会っているんだ。もうその時には、母さんの意識はなかったけれど、俺は確かに母さんがお前の名前を呟くのを聞いたよ」
「…………」
「母さんにとって、まさにお前は希望の光そのものだったんだよ。無限の可能性に満ちた、辺りをどこまでも明るく照らすような光――そう、今までのお前そのものだ。もし母さんのことを思うなら、お前には誰を恨むことなく、今までどおり、元気に過ごしてほしいと、心からそう思うよ」
 娘の耳に、その言葉が最後まで届いたのか、父には知る由もなかった。だが、娘の声なき慟哭と、胸を濡らす涙に、少なくとも気持ちだけは伝わったことを彼は感じるのだった。
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