「メビウスの輪」の表側
福岡の某大学に通う学生が、日々のどうでもいいことを備忘録代わりに書き記したり、オリジナルの推理小説を中心とした様々な小説をを発表したりするブログです。
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悪魔に会うために 第5章 A sad parting
 第五章 a sad parting

 時計を見る。現在時刻は三月三十一日の午前六時を回った辺り。もう四月は目の前だと言うのに、この時間でこの寒さはないだろう、と思えるくらいの寒さが身に染みる。
 眠れない夜を過ごすというのは正直初めてだった。薗部佳歩が蘇るために残された時間はあと六時間弱。それなのに俺たちは悪魔の正体はおろか、彼女の大切な人の名前すら分かっていない。その事実、そして昨日の直之の言葉が俺に安眠を与えてくれなかった。
 のっそりと起き上がり、床を見下ろす。寝袋に包まった三人――向かって右から順に藤崎卓弥、下川政史、太田直之――そして向かいの部屋にいる春奈とほのか、本当にこの中に薗部佳歩を殺した悪魔がいるというのだろうか。
 改めて考えるが、やはり納得できない。まず俺たちの誰かが人を殺すなんてどうしても考えられないし、第一、薗部佳歩の態度が全てを物語っている。彼女は俺たち皆と、普通に会話したり、行動したりしている。そこに自分を殺したものに対する気負いのようなものは感じられない。
 それでも気になるのは、あの時の彼女の表情だった。直之が言った、「悪魔は僕たちの中にいる」という言葉。それを聞いた彼女が見せた表情は、否定というよりはむしろ肯定に近い失望の表情に見えた。もちろん『ルール』に引っかかるので、その答が正しいかどうかは分からなかったわけだけれど。
 首を何度も振る。
 こうやって一人でスッキリしない頭で考えたって仕方がない。顔を洗ってせめて頭をスッキリさせよう。そう考えて皆を踏まないように注意しながら、俺は部屋を出たのだった。
 
 今、俺たちは皆で俺の家、つまり木山家に集結していた。結局あの後図書館でも有益な情報を得ることができなかった俺たちは、その場の思いつきで我が家に泊まることにしたのだった。それで男三人はともかく、ほのかまであっさり宿泊が許可されたのは、信頼の賜物と言ったところか。
 とにもかくにも、集結した俺たちだったが、その後もこれといった打開策が出ることはなく、ジリジリと時間だけが過ぎていった。本当ならこのメンバーで宿泊! なんてことになれば、もっと修学旅行的なノリになってもよかったのだろうが、メンバーの間に微妙に差した陰がそれを許さなかった。
 陰の正体は言うまでもない、昨日の直之の言葉、即ち「悪魔は僕たちの中にいる」である。
 皆、口には出さないものの、その言葉を少なからず気にしているのは明らかだった。少し会話が続いても、すぐにそれは途切れてしまう。
 結局、泊り込んだ割にはあまり有意義な話し合いもできぬままに、俺たちは床に着いた。
 顔を洗いながら考える。
 そういえば結局、春奈は薗部佳歩の入室を認めたのだろうか。昨夜は寝る前に何か騒いでるのが聞こえたが……まあ、今、廊下に誰もいなかったという結果から見れば、認めたということだろう。後でどうやって説得できたのか、ほのかあたりに聞いておきたいところだ。
 顔を洗い終え、二階の自分の部屋に戻る。三人ともまだ眠っていた。隣の部屋の方もこんなものだろう。
 起こすのも忍びないので、俺は皆が起きるまでの間、今の俺にできることをずっと考えていた。
 窓の向こうからは、いつのまにか降り出した雨の音が聞こえてきていた。

 結局、皆が起きだして朝食の席に着いたのは、八時になってからだった。
 今この場にいるのは、俺、薗部佳歩、卓弥、政史、直之、ほのか、そして――昨日あれだけ協力を渋った春奈だった。別に朝食のために渋々、というわけではないらしい。まあ確かに渋々といった表情が見えないでもないが、朝食をとり終えたのに席を立つ気配が無いということは、協力の意思があるとみていいだろう。
 このメンバーで残された時間は、あと四時間――
「皆、食べながらでいいから聞いてくれないか」
 皆の顔が一斉にこちらを向く。
「こうなったらもう、物量作戦で行くしかないと思う」
「物量作戦?」
 卓弥が疑問の声をあげる。
「ああ、とにかく皆で、片っ端から人の名前をあげていくんだよ」
 皆が呆気にとられた表情になる。
「まさか……とにかく人の名前をたくさん挙げて、その中のどれかが佳歩さんの大切な人の名前と一致するのに賭けようってわけ?」
 ほのかが呆れをにじませた口調でそう言った。
「ああ、そういうことだ」
「でも、光一、それ自分で言ってて分かってるー? それってつまり昨日直之が言っていたことを……」
「いや、俺が言いたいのはそういうことじゃないんだ」
 政史の言葉を遮る。確かに、昨日の直之の発言が大きなヒントになったことは間違いない。だが、決して俺は、俺たちの中に悪魔がいると認めたわけではない。
「覚えてるか、昨日直之が言っていたことを」
「だから、その……悪魔はおいらたちの中にいるーってセリフでしょ」
 言葉を濁しつつ、政史が答える。
「いや、俺が言いたいのはそっちじゃないんだ」
 皆の顔に疑問符が浮かぶ。
「ほら、言ってただろう、どうして神様の神様は薗部佳歩が蘇るための条件をこんなにへんてこにしたんだろうって、そうだったよな?」
「ん、ああ、そんなことも言ったね」
 直之の返事にコクリと頷く。最後のインパクトで薄れ気味なセリフではあったけれど、今の俺にとっては深い意味を持つ言葉だ。
「そう、そして直之はそれが、そもそも神様が決めた大枠に関係しているかもしれない、って言ったわけだけど、そこで俺は考えた。そうだとしたら、その大枠とやらは一体何なんだろうかって」
 はっきり言って、これは俺の希望的観測に過ぎない。それでも俺はその希望的観測にすがりつきたい。
「これはあくまで俺の仮説だけど、その大枠ってのは、とにかく誰でもいいから、彼女の大切な人の名前を、そうだと意識した上で告げることなんじゃないか?」
「ばっかじゃないの、そんなことあるわけないじゃない!」
 思いがけないところから反論が飛び出る。春奈だった。
「もし仮にこうい……お兄ちゃんの言うとおりだったとしたら、どうして悪魔を探す必要なんかあるの? 初めっから大切な人の名前だけ考えてもらった方がよっぽど効率がいいよ!」
 昨日までとは打って変わった熱意を、春奈からは感じられた。これは本当に後でほのかに説得の方法を聞かねばなるまい。
「それだったら説明できなくもない。その、薗部佳歩の大切な人の名前を知ってるのは、悪魔くらいなんだよ。だから一見遠回りに見えても、悪魔を探すという段階を踏むことが必要なんだ」
 こじつけと言われればそれまでだが、一応筋が通っている、と思う説だ。
「そこまで言うなら光一、そう思う根拠があるのか?」
 冷静に卓弥が切り返してくる。
「根拠は……はっきり言って、ない」
「ない、と来るとはねー」
 政史が苦笑気味に答える。
「でも、俺たちに残された手は他にもうないはずだ。その僅かな可能性に賭けてみてもいいとは思わないか」
 暫しの沈黙が降りる。
「光一がそこまで言うのならいいだろう、その手にのってみようじゃないか」
 沈黙を破ったのは意外にも卓弥だった。ありがとう、と礼を言いかけてよどむ。卓弥とまっすぐ視線が交錯したからだった。そして卓弥の視線は、俺の考えを見通していることをはっきりと伝えていた。
 ああ、分かっている、俺は卑怯者だ。口では皆を信用すると言いながらも、こうやって俺が出した案は、俺たちの中の誰かが悪魔であることを前提にしたとしても十分に成り立つ案である。むしろ、そちらこそが正式な前提であると言えるかもしれない。
 そう、結局は悪魔が答に当たりさえすればいいのだ。皆で名前を告げるのは、気休めと言ってしまってもいいだろう。もちろん俺の仮説が正しくて、悪魔でもなんでもない誰かが答を当てれば、それですむ、という可能性が完全に潰えたわけではない。だがその考え方は、なんの根拠もない妄想と言って切り捨てることが十分に可能だろう。
「一ついい?」
 ほのかが手をあげる。
「ああ、もちろん」
 何だろうかと怪訝に思いつつも、素直に了承する。
「つまり光一の案は、過程を捨ててでも結果を手に入れようとする案ってことよね」
「……まあそういう言い方もできると思うけれど……」
「それでいいの?」
「え?」
「だから、光一はそれでいいのかって聞いてるの。過程を一切求めずに、結果だけを求めるようなやり方で」
「……仕方がないだろう、この場合は。だってこの場合は、結果を出さなければもう取り返しがつかないんだぜ。確かに過程が大事なときもある、でも過程はともあれ、結果を出さなきゃいけないときもある。そして今がその時、だろう?」
 どちらかといえば俺も、普段は過程に価値を見出す傾向がある。だが今は、場合が場合だ。結果をださなければならないときなのだ。
「……そう、わかった、そういうことならいいわ、光一の案に乗ってみましょう」
 ほのかの言葉にホッとしつつも、気づく。ほのかの表情……そしてその横にいる春奈の表情が、今までみたこともないくらい沈鬱なことに。
 そしてもう一人、それと負けず劣らず沈鬱な表情をしていることに気づく。
 なぜだろう、それは今から形はどうあれ、核心に近づくはずの薗部佳歩だった。

 俺たちは場所を二階の俺の部屋に移して、片っ端から人の名前をあげていく、という不毛な作業を開始した。
 やってみてわかったが、これは想像以上にしんどい作業だった。何せ手がかりらしい手がかりといえば、その名を聞けば、薗部佳歩が蘇っても混乱が起きるわけがないと分かる名前だと言うことだけ。自分の出す名前が答に近いのか、遠いのか、その手応えさえないというのはいささか辛い。
 最初に俺たちがあげつらねたのは、今を席巻する、名だたる要人たちの名前だった。わざわざインターネットのニュースサイトを回って、片っ端から名前を挙げていく。だが、答に辿りつく気配は全く見えない。
 彼女の大切な人が、何も日本人とは限らない、ということになって、自然と日本に限定されていた枠が世界へと広がる。
 それだけ手間も増えたが、やはり答には至らない。
 そして次第に俺たちの出す名前は、時代を遡っていく。
 ここまで来れば、もはや彼女の大切な人としての現実性は失われていた。それでもそんなことお構いなしに、俺たちはただひたすらに人の名前を挙げていく。
 歴代首相の名前は全て挙げた。
 戦国時代の武将の名前もほとんど挙げた。
 だが答には結びつかない。
 有史以来の世界史に登場する名前を丸ごと挙げた。
 神話や伝説に登場する架空の人物の名前も知りうる限り挙げつくした。
 それでも答は出なかった。
 そんなことをしている間にも、当然刻一刻と時間は過ぎてゆき――そして、その時が訪れようとしていた。

「次は、ヤマトタケルノミコト、それから――」
「光一」
 政史に呼び止められ、作業を遮られる。
「なんだ? もしかして、何か心当たりが?」
 期待をこめて俺が尋ねると、政史はゆっくりと首を振った。
「そうじゃない、もう無理なんじゃないかな」
「馬鹿、そんなこと言う前にとにかく名前を挙げるんだ、こんな話をしてる時間は――」
 言いつつ時計を見て、愕然とする。時計は十一時五十分を指していた。俺たちに残された時間は――もはやたったの十分しかない。
 慌てて周りを見回すと、皆、既にぐったりしており、黙って視線をこちらに向けている。
「ど、どうしたんだよ皆、もうあまり時間はないんだぞ。早く……早く名前を……」
「駄目だよ、こんな方法じゃ、いつまで経っても答は見つからない」
 妙に冷めた口調で、春奈に言われる。
「な、何言ってるんだよ、まだ俺たちが挙げてない名前がきっとあるはずだ。……そうだ、最近の歌手なんかはどうだ。その人にとってどうかはともかく、それが薗部佳歩にとって大切な人の名前って可能性も……」
「どちらにせよ……無理だ。時間が足りなさすぎる」
 春奈以上に冷めた、もう冷酷と言っても過言ではないほどの口調で卓弥が断定する。
「で、でもそれじゃあ……」
「もういいんです」
 声の方に、皆の視線が自然と集まる。そこにいたのは――
「もう、いいんです。私は十分皆さんに良くしていただきました」
 紛れもなく薗部佳歩で――ああ、それ以上は言わないでくれ――
「これ以上多くは望みません」
 お前がそんなことを言ってしまったら――
「私の最後のわがままです。皆さんの時間を十分間、私にいただけませんか?」
 薗部佳歩がそう言い終えるのと、俺が力なくうなだれたのはほぼ同時のことだった。

「まずは……春奈さんとほのかさん」
 そう言って薗部佳歩が春奈とほのかがいる方へ相対する。どうやら、皆に向かってそれぞれ最後の言葉をかけようということらしい。
「お二人には本当に謝らなくてはいけませんね。私がこんなところに現れたばっかりに、余計な混乱を巻き起こしてしまって……」
「そのことなら、別にもういいのに……」
 春奈が呟く。
「でも、こう言ってはなんですけれど、昨夜は修学旅行みたいで、本当に楽しかった……ここに今いる自分の幸せを噛みしめられるくらいに――自分の置かれてる立場を忘れてしまいそうになるくらいに」
 気づけば、春奈もほのかも涙ぐんでいた。佳歩の話は続く。
「それでも私は私であることを忘れられなかった。それは本当に申し訳ないと思っています。それでも――それでも最後だけはこう呼ばせてください」
 そこで一息ついてから佳歩は告げた。
「春奈ちゃん、ほのかちゃん」
 二人の瞳から涙がこぼれる。春奈はただ泣きじゃくるばかりだったけれど、ほのかは薗部佳歩を抱きしめようとして――そこでそれができないことを思い出すと、上げた手を下ろしてからただ一言、告げた。
「こちらこそ、楽しかったよ、佳歩ちゃん」
 それを聞くと、佳歩は嗚咽とともに涙を流しながら、大きく頷いた。彼女のほほを伝う涙は、床に落ちることなく霧散する。それに一抹の寂しさを覚えるのは、俺だけだろうか。
 少しの間を置いて、涙を拭うと、次に薗部佳歩は、卓弥と政史に相対する。
「お次は……卓弥さんと政史さん」
 決然とした表情で、彼女が告げる。
「お二人には、別の意味で感謝しなくてはなりませんね。何せ私の秘密に気づきながら、それとなく隠していただいたのですから」
 二人は驚きの表情を見せる。
 それに負けず劣らず驚いて、薗部佳歩の秘密とは何なのかを問いただそうと立ち上がりかけた俺を、直之が手で制す。確かに彼女の秘密も気になるが、今はそれを問いただすべき時間ではないだろう。俺は彼女に十分間を預けたのだから。
 俺は黙って頷き、直之に従い話の続きを聞く。
「それでも私のことを思い出していただけなかったのは残念ですが……そこまで望むのは高望みと言うものでしょうね」
 自嘲気味にそう呟く。だがその表情は、どこか吹っ切れた様子が見てとれる表情とも言えた。
「はっきり言って、お二人の目指す道は険しいでしょうけれど、頑張ってくださいね。特に卓弥さんは、一昨日相当いいところまで行ったんですから。私も草葉の陰から応援しています」
「なんで知ってるんだ……」
 苦々しげに卓弥が呟く。政史の表情も苦々しさではどっこいどっこいだ。
 結局、二人の話にしてもいまいち掴めないところはあったが、後でゆっくり問いただすことにしよう。
 次に彼女が向き合ったのは、直之だった。
「そして……直之さん」
 向き合う直之の表情は、どこか穏やかだった。
「欲を言えば、直之さんとはもっと早くにお会いしたかった」
「僕も心からそう思うよ」
 昨日から印象に残ることばかり言っているから忘れかけていたが、直之が薗部佳歩と出会ったのはまだ昨日のことだ。今の俺にはそれがひどく勿体無いことのように思えた。
「結局、あまりお二人でお話しする時間はありませんでしたけれど、それでも……それでも直之さんのおっしゃってくださったことは、やっぱり法外に嬉しかったです。ただ、最後に一つだけ――」
 そこまで言うと、薗部佳歩は体をそっと前に傾け、直之の耳元に口を寄せると、ボソボソと何か囁いた。それを聞くと、直之は、
「え? そうだったの!」
 と素っ頓狂な声をあげ、彼女はそれに対し、
「はい、昨夜聞いたところによるとそのようです」
 クックと鳩のように笑いながらそう告げた。直之の焦る姿は、子供の頃から変わらない見慣れたものだったが、それゆえにどこかしら安堵感を抱けるものだった。
 それにしても、今のところ一人の例外もなく、薗部佳歩に関して何か秘密を隠している、という事実は、少し寂しく思えてしまうことだった。
 だが、哀愁に浸る暇は無かった。薗部佳歩が俺に向き合う。
「最後は……光一さんですね」
 そして、別れの刻が、一歩近づく。

 こうやって真正面に向き合うのは、最初の日くらいだった気がする。
 改めて薗部佳歩……いや、佳歩を観察する。
 外見年齢は、十八歳前後。おそらく俺たちと同じか、少し下くらいだろう。そういえば結局、彼女の実年齢を俺たちは知ることができなかったわけだ。
 髪はショートカットにしていて、チャームポイントであろう瞳を埋没させることなく、その切れ目からしっかり見せてくれている。
そのチャームポイントたる瞳はと言えば、一言できれいなだと片付けるには勿体無い。凛々しさも兼ね備えたその瞳を一言で表現するならば、まさに「美麗」が相応しいだろう。長すぎず短すぎないまつ毛も、そんな彼女の瞳に丁度いいアクセントとなっている。
顔立ちの、それ以外のところも忘れてはならない。整った鼻筋に、全体的に小さめの顔にフィットした小さめの唇と、どこをとっても文句のつけようがない。
 結局のところ、最初に見たときとそう印象が変わっているわけではない。我ながら、焦りながらもそれなりに観察はしていたんだなあと感心してしまう。
「そんなにじっくり見ないでください」
 気のせいか僅かにほほを紅く染めながら、佳歩が呟く。
「ああ、ごめんごめん」
 だってこれが見納めになるかもしれないじゃないか、とは言えなかった。
「光一さんは、見知らぬ私なんかのために本当に尽力してくださって……本当に感謝しても感謝しきれ……」
 言いかけて佳歩が――そして俺を含めた皆が気づく。
 佳歩の姿が、少しずつ透明になり始めていた。慌てて時計を見る。我が家の電波時計は、十一時五十九分を指していた。
「どうして! まだ一分あるのに!」
 俺の悲痛な叫びをものともせずに、淡々と薗部佳歩は呟く。
「……ああ、どうやら時間とともにいきなり消えてしまうわけではなくて、制限時間に向けて少しずつ消えていくみたいですね。心の準備ができて、いいかもしれません」
 最後の方は、自分に言い聞かせるためであろうか、随分と小さな呟きであった。
 だが佳歩に自分の消失を受け入れる準備ができていても、俺にはまだそんな準備はできていない。むしろ、突如目に見える形で現れた、彼女が消えるという事実は、俺の心を意味もなく焦らせる。
「失敗しちゃいましたね、まさか好きなものは最後に食べる性格が、こんなときに裏目に出ちゃうなんて」
 そんな彼女の呟きを聞いたとき、不意に俺は、この中で誰より彼女の喪失を悲しむのは、自分ではないだろうかと思えた。それには何の根拠もない。さっきのような下心もない。
 だからこそだろう。その時俺は、まだ告げてない名前の存在に気が付いた。
 我ながら馬鹿な考えだと思う。でも、やってみなくては気がすまない――そんな風に思える名前だった。
 だからこそ、告げる。

「木山光一」

 佳歩が俺の言葉を聞いて、呆気にとられた表情になる。構わず俺は続ける。

「俺は悪魔でもなんでもない、ただ君に巻きこまれただけの存在だけれど、それでも――それでも君の大切な人が俺で、その名を告げれば君が救われる、なんて馬鹿な考えが通用してくれたりはしないだろうか」

 言ってしまってから気づく。自分が相当恥ずかしいことを言っていたということに。慌てて今言ったことを取り消そうとして佳歩の顔を見て――俺は息を呑んだ。
 佳歩の表情は、とても不思議なものだった。強いて言うなら、嬉しさと切なさが等しく混在している――そんな不思議な表情だった。
 そんな表情のまま、何か言おうとした佳歩だったが、チラリと時計を見て諦めたように口を閉じる。そしておそらく代わりに、ということであろう。
「最後に、一つだけ言わせてください」
 こう前置きしてから、告げた。

「ダメですよ、神様が私なんかにそんなことを言っちゃ。それとこれとを勘違いしないようにしてください」

 そう言って、大輪の向日葵のような笑顔になる。それは、とても間もなく消えてしまう人が見せる笑顔だとは思えなかった。
 そしてそれが、正真正銘佳歩の最後の言葉だった。
 佳歩はこの四日間で最高の笑顔を俺たちに見せると

 消えた。

 完全に、きれいさっぱり、跡形もなく。

 *

 俺たち、特に俺は呆然としていた。
 佳歩を失った喪失感と、最後に佳歩が見せた笑顔と、最後の佳歩の言葉で受けた混乱と――それらがごちゃ混ぜになって、今まで経験したことのない形の感情に仕上がる。
 改めて、最後の佳歩の言葉が反芻される。

『ダメですよ、神様が私なんかにそんなことを言っちゃ。それとこれとを勘違いしないようにしてください』

 最後の最後で時間がなかったとはいえ、佳歩の言わんとするところは全く分からなかった。なんと言っても最大の疑問は、佳歩が俺のことを神様と呼んだことだった。
 まさかあのタイミングで、俺のことを誰かと間違えたということはないはずだ。だがそれにしたって、一体どういう意味なんだ――
 とにかく頭の中がグチャグチャだった。そんな状態に沈黙は都合がよかった。
 多分皆にとってもそうだろうと思っていたのだが、少なくとも一人にとってはそうでなかったらしい。
 唐突に、沈黙は破られた。

「それじゃあ、行こうか」

 声の方を向く。そこにいたのは――直之だった。
「……行くって、どこへ?」
 無視することもできずに、思わず問い返す。そして直之は、とんでもない一言を、告げる。

「決まってるでしょ、僕たちの知ってる薗部佳歩に会いに、だよ」
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テーマ:自作小説 - ジャンル:小説・文学

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