「メビウスの輪」の表側
福岡の某大学に通う学生が、日々のどうでもいいことを備忘録代わりに書き記したり、オリジナルの推理小説を中心とした様々な小説をを発表したりするブログです。
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CONFUSED MEMORIES
 静かな夜だった。
 聞こえるのは、遠く足下から聞こえてくる潮騒だけ。耳を澄ませば、もしかしたら彼の心臓の鼓動だって聞こえてくるかもしれない。
 そっと彼の様子を伺う。
 彼は、ここに来てからずっと、ただ何も言わずにじっと海を眺めていた。その面持ちはなんだか深刻そうで、声をかけるのはためらわれる雰囲気で……
 そう、一言で言えば、彼の様子はどこかおかしかった。

 *

 彼の様子がおかしいのも無理はない。
 明日の私は、今の私とは全然違う私なのだから。
「……本当に、大丈夫なのか?」
 搾り出すように、彼はそう呟いた。
「大丈夫よ。そりゃあまあ、不安がないって言えば嘘になりますけれど、これで文字通り頭痛の種から解放されるんです、いっそ晴れ晴れとしていますよ」
 そんな彼の姿が見ていられなくて――私は努めて明るく振舞う。

 *

 そもそも初めからして、おかしかった。
「海に行くぞ」
 彼のそのあまりに唐突な提案は、深夜23時のものだった。
 呆気にとられる寝ぼけ眼の私の手をとり、彼は部屋から私を連れ出すと、車に乗せてそのままここまで連れてきてしまった。
 クシュン、と小さなくしゃみを1つ。考えてみれば今の私の格好は、寝巻きにカーディガンを羽織っただけの、簡素なもの。この時間、外を出歩くにはあまり適当でない。
「寒いか?」
 それまでずっと黙りこくっていた彼が、尋ねてきた。
「え? い、いえ、大丈夫です。別に寒くはありません」
 反射的に強がって見せる。
「そうか……」
 そう言って納得したような表情を見せると、彼はおもむろに自分が着ていた上着を脱ぎ始めた。
「え、あの、ですから、別に寒くなんかありませんって……」
「バカ、こういうときのお前は、変に遠慮してとっさに嘘をつくだろうが。それくらいわからない俺じゃない」
 言いながら、脱いだ上着を私にかけてくれた。それが暖かくて、そして彼のかけてくれた言葉が嬉しくて、私は自分の顔が紅くなるのを感じた。
「でもな、1つだけわからないことがある」
 私に上着をかけてくれた彼は、そこで一旦言葉を区切る。
「お前はどうして、俺についてきてくれたんだ? 俺のことは覚えていないはずなのに」

 *

「お前が……お前が無理してどうするんだよ!」
 彼の言葉は、今までとは違って、やけに語調が荒かった。
「……何を言ってるんですか、別に私、無理なんて……」
「無理してるだろ! 不安にならないはずがないじゃないか! 今までの記憶を失うその前の日に、不安にならないやつなんているわけがない!」

 *

 私が永い眠りから目を覚ましたのは、つい昨日のことだ。そこは見覚えのない病室で、混乱しきった私の前に現れた医者は言った。
 曰く、私はある2年前、ある難病にかかってしまった。当時、その病気にはこれといった治療法が存在しなかったが、幸いにもその後、画期的な治療薬が開発された。
 しかしこの治療薬にはある強烈な副作用があった。服用者は約1年間、目を覚まさずに昏睡状態に陥ってしまうこと。そして服用者は5年間前後の記憶を失ってしまうこと、の2つであった。
 勿論そんなことを言われたところで、私には実感など湧くはずがなかった。ただあるのは、心にポッカリ穴が開いたかのような空虚感だけ。
 そんな時だった。顔を見たこともない彼が、私の病室へやってきたのは……

 *

 もう、我慢の限界だった。
 私は泣いた。ただ延々と。欲しいものがもらえなくて愚図る子供のように、脇目も振らずに。
「イヤだよ……私、イヤだよ! ユウちゃんのこと、忘れたくない!」
 私とユウちゃんが出会ったのは3年前のこと。多少の個人差があるとはいえ、薬の副作用は3年前の記憶を見逃してくれるほどには甘くない。
 私は彼のことを忘れる。それは間違いのない、厳然たる事実だった。

 *

「さあ……なぜでしょうね?」
「……はぐらかしてるのか?」
「いえ、そんなことないですよ」
 それは、私自身疑問に思うところだった。目覚めたばかりで頭がはっきりしてなかったとはいえ、私は特に抵抗することなく彼についてきた。彼の様子が、どこかおかしいと感じていたにも関わらず、である。でも……
「でも、あえて言うなら……直感、ですかね?」
「直感?」
「ええ、なんとなく私は、この人のことが好きだったんじゃないかなって、直感です」
 その時の彼の顔は、なんとも形容しがたいし、他人が形容していいものじゃない気がした。でも、あえて言わせてもらえば、それはきっと世界で一番幸せな泣き顔だった。
 だから私はそんな彼に言葉をかけることはせず、ただ黙って見守っていた。

 *

「また来年、お前の誕生日にここに来ようか」
 彼は不意にそう告げた。
「……どうして? 来年の私は、今の私じゃないんだよ? その約束を、私は覚えていられない」
「いいんだよ。お前が覚えていなくても、俺が覚えている。お前との思い出も、今日の約束も、何もかも。それに……」
 そう言ってから、照れ臭そうに頭をかいて、
「俺との思い出があってもなくても、お前はお前だろ?」
 それはどう考えても、魔法の呪文だった。あんなにも不安で一杯だった私の心を包み込んでくれる、優しい呪文。
 さっきまでとは違う涙が頬を伝うのを感じながら、その魔法の呪文に最後の一歩を押された私は、バカなお願いを口にすることにした。
「……じゃあ、私からも1つ、いいかな?」
「なんだ? 今の俺なら、大抵の頼みなら聞くぞ」
 その言葉が嬉しくて、だから私は最後の願いを告げる。

 *

「約束だったんだよ」
 それは暫く泣き続けた彼が、最初に告げた言葉だった。
「約束って、何がですか?」
「お前を誕生日にここに連れてくること、それがお前と最後に交わした約束の1つだったんだ」
 誕生日って……それじゃあ今日は……
「誕生日おめでとう、茜。そして俺は、もう1つの約束も確かに果たした」
 もう1つの約束を聞くなんて、野暮なことをする必要はなかった。
 だって彼は、私を優しく抱きしめてくれたんだから。1年前だろうと何年前だろうと、きっと私ならこういうだろう。

 *

「記憶を失くした私を、また愛してくれませんか?」
 その言葉に、彼はただ、黙って頷いてくれたのだった。
月灯り・夢語り
 それは、月明かりがふんわりと落ちてくる、ある夜に
 周囲に人影の見当たらない、ちょっと洒落た片田舎の居酒屋の前で
 カランカランと、小気味の良い音とともに、一人の若い男が店を出たところから始まる物語。
 
 *
 
 男は、胸ポケットに手を伸ばした。そこにあったのは開封済みのタバコの箱だ。
 彼は慣れた手つきでタバコを一本取り出し、口に銜えると、左手を風除けにしながら、ライターを使い、それに火をつけた。
 たばこの煙か、はたまた吐息か、白い煙が宙に舞う。男はぼんやりとその煙の行方を見るではなしに見つめていた。
 その煙が空にほとんど溶けようとしていた頃、カランカランと、ドアベルの音とともに再び店の扉が開かれた。
 そちらに目を向けた男の目が、驚きのせいか、心持ち大きく見開かれる。
「そんなところで何しているの、勝彦君?」
 扉から顔だけ出して、まだ幼さの残る、艶やかな黒髪のうら若き乙女が男に尋ねた。
「何って……タバコを吸ってるのさ」
 いたずらを見咎められた子供のように、ばつが悪そうに男――勝彦は返事した。
 彼女はその返事に納得できなかったらしく、首をかしげてから店の外に出て、扉を閉めた。
「おいおい、こんな寒い日にわざわざ好きこのんで外に出てくることはないだろうに」
「そういう勝彦君だって、わざわざこんなところでタバコを吸うことは無いんじゃない? 中には灰皿もあるし、それに他にもタバコを吸っている人はいたじゃん」
 彼女の素朴な疑問に、勝彦は苦笑しながら答える。
「いや、だってさ、皆がどう思ってるか知らないけれど、少なくとも俺は永畑先生がいる前でタバコは吸えないよ」
「あらあら、クラスで一番やんちゃだった勝彦君からそんな言葉を聞けるなんて」
「言ってくれるなあ」
 苦虫をつぶしたような顔で勝彦はぼやく。
「でも、まあ永畑先生には俺なりに感謝してるからさ、先生が最後の授業で教えてくれたことを目の前で裏切るのは流石に忍びなくってさ」
「最後の授業……ってなんだったっけ?」
「覚えてないか、今日の俺たちの話……同窓会の話だよ」
 それを聞き、
「あー、そういえば、そんな話があったようななかったような……」
 彼女はこめかみを軽く押さえながら記憶をたどる。
「美弥子がそんな調子なら、みんな似たようなものかもしれないな。けれど俺は、どうしてだかよく覚えてるよ。かつての教え子たちとの同窓会――それも今日の俺たちみたいに成人の日を祝っての同窓会の席で先生が一番悲しかったことは、教え子たちの何人かが喫煙者になっていたこと、だから俺たちの同窓会の時は、喫煙者がいないことを願う。そんな話をしてくれたんだ」
 女性――美弥子の顔が緩む。
「……思い出した、確かにそんな話をしてくれたよね、ホームルームの時間だったかな」
「ああ、テーマは喫煙の害についてだった。あの頃は、こんな毒物の摂取、絶対にするわけないって思ってたのにな。まさか喫煙者になってるなんて夢にも思わなかったよ」
 自嘲気味に呟きながら、勝彦はタバコを再び銜え、紫煙をくゆらせる。
「そっか……そうだよね……じゃあ例えば、私と恋人になってる夢は見たりしてたの?」
 美弥子の言葉に、勝彦はゲホンゲホンと、タバコのせいではない大きな咳をする。
「お前、何をいきなり……!」
「安田君たちに聞いたよ、勝彦君の初恋の人って、私だったんでしょ」
 いたずらな微笑みで、美弥子が問いかける。
「あいつら、裏切りやがったな……」
 苦々しげに勝彦がこぼす。
「ってことは、やっぱり安田君たちが言ってたことは本当なんだ。そっか、ちょっと嬉しいかも」
「嬉しいだなんて、お世辞はいいよ。クラスで一番のやんちゃ者だった奴から惚れてたなんて言われても、困るだけだろう?」
「そんなことないよ、だって、私の初恋の人も勝彦君だったし」
 サラリと告げられた美弥子の言葉に、勝彦の目が点になる。
「あれ? 何、その目は? そんなに意外? 私としては結構、そういう素振りは見せてたつもりなんだけれどね」
「そ、そうなのか? え、じゃあ待てよ、あれか、もしかしてあの時、勇気を出して告白してたら今頃もしかして……」
 慌てた素振りで勝彦が言葉を並べる。
「そうだね、もしかしたら今頃私たちは、恋人同士だったかもしれないね」
 クスクスと、どこかしら小悪魔を連想させるような笑顔で、美弥子が囁く。
「そ、それじゃあ今からでも……」
「ざーんねんでした、こんな美人を世の男どもがほったらかしにしていると思う?」
 満面の笑みとともに、美弥子が嘯いてみせる。
「そりゃ、そうだよなあ」
 言って、勝彦も大げさにうな垂れてみせる。
「……でも、今の話を聞いてたら、なんとなく分かっちゃったかも」
「分かったって、何が?」
 困惑気味に勝彦が聞く。
「よく言うじゃない? 初恋は実らないって。それって半分正しくて、半分間違ってるんじゃないかなって、思ったんだ」
 勝彦が首をかしげる。
「なんて言えばいいのかな。ほら、さっきのタバコの話もそうだけど、私たちが子供の頃、大人になった自分が何をしているかなんて、全然想像できないじゃない? ただそれとは逆に、未来の私たちが過去を振り返れば、今の私たちを形作っているもの、それは見えてくると思うんだ」
「確かにな、子供の頃の俺には気づけなかったことだけれど」
「そう、まさにそれ。私たちは常に何らかの選択を繰り返しながら、少しずつ大人になっていく。でも、子供の頃の私たちはそれに気づけない。だから、そう、初恋は実らないんじゃない。実らせることを選ばないんだよ」
「それ、美弥子に言われると辛いなあ」
 携帯灰皿でタバコの火を消しながら、勝彦は天を仰いだ。
「でもさ」
「え?」
「確かに夢を叶えることを選ばなかった過去を拭うことはできないけれど、夢を叶える未来を選ぶのに、遅いってことはないよな」
 自分に言い聞かせるように述懐すると、勝彦は先ほどまでとは打って変わった真剣な面持ちで美弥子を見つめる。
「なあ、どう思う? 美弥子」
「ど、どうって、言われても。ほら、私、だって今、彼氏がいるし」
「もう嘘はつかなくていいさ。お前みたいな内弁慶に彼氏なんてできるわけないだろ」
 呆れ気味に勝彦が言ってのける。
「な! ちょ、ちょっと。勝彦に私の何が分かるって……」
「分かるさ、中学を卒業するまでずっと見ていたんだから」
 顔を真っ赤にして反論する美弥子の言葉を遮り、勝彦は真っ直ぐ美弥子を見つめると、優しく美弥子を抱き寄せた。
「も、もう……ば、馬鹿……」
 二つの影が一つに重なる様を、月だけが見つめていた。

 *

「ってな展開で、勝彦と美弥子が結ばれたってのはどう?」
「……あんたさ、もしかして親友の結婚式の間中、ずっとそんなことを妄想してたの?」
「失敬な。披露宴の間もずっと考えてたさ」
「……きっかけは同窓会で再開したことでしたって言葉一つでそこまで想像できる、あんたの想像力には時々敬服するわよ」
「うーん、誉められているような気がしないのはなぜだろう?」
「当たり前よ、誉めてないもの」
「あらら、そんなにはっきり言わなくても。でもさ、自分で言うのもなんだけれど、結構いい話だと思わない? 昔どこかの魔法少女が夢見れば夢も夢じゃないって言っていたけれどさ、それってやっぱり真理じゃないよね。夢を実現するためには、夢を見るだけじゃなくて、夢を叶えるための選択が必要なんだよ」
「まあ確かにそれは、あんたの言うとおりでしょうね」
「そうだよねー。というわけで結婚しよっか、美南」
「な、な! ち、調子に乗るな! そういうことはもっとロマンチックな時と場合を選んで言いなさいよ! 世間話のついでみたいに言うな!」
「えー、満月の夜、海沿いの帰り道。この上なくロマンチックだと思うんだけどなあ」
「寝言は寝て言え!」
「とか言っちゃって、本当は嬉しいくせにー」
「こ、このー! 私はね、武、あんたのそういところが嫌いなのよ!」
「そう? 僕は美南のそういうところが好きだけれどねー」
「……も、もう、馬鹿ー! し、知らない!」
骨の髄まで愛してる(求む! 感想、批評、誤字指摘)
『骨の髄まで愛してる』の連載を開始します。
公募前提で連載していきたいと考えていますので、厳しい突っ込み、及び率直な感想歓迎です。
ぜひお気軽に書き込んで行ってください。

『骨の髄まで愛してる』
第1話あらすじ:幽霊や妖怪を見ることができ、日常的にそれに親しんできた少年。
ある日彼は、自らの手に負えない異形の怪物と遭遇し、絶体絶命の危機に陥る。
そこに現れた幼い少女、彼女は少年を窮地から救うと、疑問を抱く少年に告げる。
「だってわたくし、あなたのことを骨の髄まで愛していますもの」

骨の髄まで愛してる 第1話 12th rib その1
 それはあらゆる意味で悪夢のような光景だった。
 異形の化物を相手に、少女は蝶のように舞う。
 言うまでもなく、異形の化物は、その存在自体が悪夢じみている。
だが、少女の姿もまた、ある意味では悪夢じみているのだ。その化物相手に、動じることなく対峙し、紙一重で化物の動きをかわし、そして傷を負わせる。幼い外見とは裏腹に凛としたその姿に、俺の目は否が応でもひきつけられてしまう。そう、目を離したくても離せないという点において、まさに彼女は悪夢じみているのだ。
目の前で繰り広げられる、次元の違う戦いに巻き込まれてしまった不幸を恨みつつ、俺は思わずにいられなかった。
 今なら祖父さんの修行も、もっと真面目に受けられるだろうか、なんて場違いなことを。
骨の髄まで愛してる 第1話 12th rib その2
 その日は、三寒四温の寒に当たるであろう、春を間近に控えた空寒い一日だった。
 俺、賀茂藤矢は、コンビニで買った肉まんを食みながら、学校からの帰り道にあたる商店街のアーケードを急ぐでもなくのんびりと歩いていた。
 黄昏時はあまり好きではない俺だが、ここだけは別だった。適度に人通りがあり、それでいて決してゴミゴミとはしていない。ここなら厄介なノイズもほとんど聞こえてこない……はずだったんだが……
「お兄ちゃん、僕の声が聞こえるの?」
 どこかから声が降ってくる。立ち止まって声の方に顔を向けると、小学校低学年くらいの少年が、とある商店の二階の窓から顔を出してこちらを見下ろしていた。まだ寝るには早いというのに、寝巻き姿なところを見ると……
「良かった、やっぱり聞こえるんだね? 昨夜からここでずっと、こうやっているのに誰も気付いてくれなくって……」
 少年は本当に嬉しそうに顔をほころばせる。
「ねえ、お兄ちゃん、よかったら上がってよ、今、お父さんもお母さんもいなくて、退屈してたんだ」
 きっと、その少年の気持ちに嘘は無いのだろう。だから今から俺がしようとしていることに、若干の罪悪感がないわけではない。
「ねえ、早く、お兄ちゃん」
「坊主、一つ聞いていいか?」
「なあに?」
 頼むから、そんな無邪気な顔を見せないでくれ。思いつつ、尋ねる。
「お父さんとお母さんは、今、どこにいるんだ?」
「うーんとね、どこか遠いところに行っちゃったんだ」
「そうか……それじゃあお前も、すぐ二人のところに行ってやれ」
 意を決して、唱える。
ナウマクサンマンダバザラダンカン!」
 絹を裂くような鋭い悲鳴が少年の口から放たれる。刹那、黒い小さな影が少年から飛び出し、グギギと耳障りな悲鳴をあげながらのた打ち回り、俺の目の前に落ちてきた。
 躊躇うことなく、俺はそいつを踏み潰した。足を上げると、最早そこに何かが存在した形跡は残されていない。
 再び顔を上げると、少年の輪郭が段々と薄れ始めていた。低級の悪鬼の類にとりつかることで辛うじて現世に留まっていた少年の魂が、形を維持できなくなりつつあるのだろう。
 とはいえ、少年がその現実を素直に受け容れられるかと言えば、そうでもない。少年は必死に、泣きながら何かを俺に伝えようとしている。それは分かるが、多少霊感がある程度の俺では、もうその声なき声を聞いてやることはできなかった。だから俺は無責任に告げる。
「泣くな、坊主。向こうでお父さんやお母さんが待ってるぞ」
 それが聞こえたのか、聞こえなかったのか。少年は泣き止んでくれた。笑顔とまでは行かないが、十分及第点だろう。
 間もなく、少年の姿は完全に霧散した。
 暫く何をするでもなく佇み、やがて視線をやや下に移す。先ほども確認した店の名前をもう一度確認する。
 『富田商店』。
 今朝からニュースで何度もお目にかかった名前だ。借金で首が回らなくなり、一家心中という道を選んでしまった商店の名前として、この界隈では今や知らない者はいないだろう。
「たく、不景気のバカヤローが」
 吐き捨てずにはいられない。
 商店街の中は、霊やら悪鬼の類が比較的少なくて、俺の数少ない安寧の地だって言うのに、こんなにもムカムカとした気分にさせやがって。
 毒づきながら、ふと周囲を見回す。
「ママー、あのお兄ちゃん、さっきから何を一人でやってるのー?」
「しっ! 見ちゃいけません!」
 幼い子供を急かしながら、母親と思しき女性が子供の手を引いて足早に離れていく。
 別のところでは、買い物を終えたオバサンたちがこちらを伺いながら、こちらに聞こえないように注意をしながら話をしている。
 ……そろそろ人目が気になってきたし、ここは大人しく帰るに限る。
そう思って踵を返したときだった。

(やっと見つけた)

 ん? 誰かの声が聞こえた気がして振り返る。だがやはり、辺りには誰もいない。
 今の声は何だったのだろうか? 疑問に思いつつも、考え事をするにはちょっと疲れていた俺は、その声を気のせいと言うことにして、さっさと家路につくことにしたのだった。
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